1 時代の申し子(昭和から平成へ)
平成の世になって早くも25年経ちましたが、美空ひばりが亡くなったのが平成元年(1937年生まれ1989年6月満52歳没)なので、時を同じくして25年も経過したことになります。
いまでもテレビその他で彼女の歌を聞いたり、歌ったりすることは多く、その存在感は昭和という時代の象徴といっても過言ではありません。
ひばりは天才少女と言われ、12歳の時の「悲しき口笛」やその後「東京キッド」「越後獅子の唄」等を矢継ぎ早にヒットさせ、大スターになり長く戦後の日本を元気づけました。
2 ひばりの思い出
① 映画「あの丘越えて」
私のひばりに関してもっとも古い記憶では、親父に連れられて夕張の鹿ノ谷劇場で映画「あの丘越えて」を見たことです。
この映画は昭和26年に封切られたといいますから、おそらくその2~3年後経ってからの鑑賞と思われ、主演の鶴田浩二の相手役で少女ひばりが歌った同名の主題歌は非常に印象に残っています。
② ひばりと紅白
ひばりは昭和29年(1954年)に紅白に「ひばりのマドロスさん」で初出場し、その後は歌謡界のトップとして17回出場し、10年連続の紅組のトリをつとめましたが、暴力団問題で昭和48年出場辞退してからは紅白の復帰はありませんでした。
③ 新宿コマの「美空ひばりショウ」
昭和50年に台湾の高雄から叔母さん夫婦が上京するので、母から夫妻の東京見物の案内を頼まれ、歌好きな叔母のために、今は無き演歌の殿堂と言われた新宿コマ劇場でやっていた美空ひばりショウを見に行きました。
ひばりは身長わずか147cmの小柄ですが、彼女の存在は大きく見え、舞台狭しばかりに迫力満点でした。
ひばりのショウは第一部では芝居、第二部が歌謡ショウのお決まりの2部構成ですが、ご夫婦は大変満足した様子で帰国しました。
④ 「一本の鉛筆」という歌
ひばりがレコーディングした1500曲の中で、唯一の反戦歌である「一本の鉛筆」は映画監督の松山善三が昭和49年第一回広島平和祭にひばりのために書き下ろした歌です。
その14年後に行われた第15回の同祭に病を押して広島へ行き,再びこの曲を歌い、翌年に亡くなったことは、ひばりの意外な一面を示す逸話といえます。
3番の歌詞には「一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く 、一本の鉛筆があれば人間の命と私は書く」とあって、是非ユーチューブ等で聴いてほしい歌です。
3 ひばりに続く歌い手は・・・
ひばりは不出生の歌手であることは誰しもが認めところです。
現在いる中でひばりに続くような歌手を自分勝手に挙げさせてもらえば、森昌子、天童よしみ、キム・ヨンジャ、島津亜矢、由紀さおり、以前の都はるみということになりますが、横綱ひばりと比べると失礼ながら小結、関脇クラスではないでしょうか。
その理由は「ひばりの佐渡情話」「津軽のふるさと」で聞く甘い声の中に高く微妙にひっくり返りそうな歌い方や「柔」「人生一路」「港町十三番地」に現れるパンチ力あふれる人生応援歌、そして「悲しい酒」に見る歌いながら自然と涙が出るという誰もまねができないバリュエーションに、聞く人は強くその世界へ引き込まれる魅力があるからです。
もう一人このひばりの歌心に迫ることのできる歌い手は平成4年(1992年)最愛の夫を亡くして歌謡界から消えた「ちあきなおみ」ではと思うことがあります。
私はレコード大賞を受けた「喝采」よりも昭和50年の紅白で歌った「さだめ川」という曲が好きですが、その三番の「すべては水に流しては 生きていけなさだめ川
あなたの愛を次の世まで ついていきたい私です」という歌詞どおりに生きている彼女にとって、歌謡界への復帰は残念ながら難しそうです。
4 歌は世につれ
ひばりのすごさは病気に悩みながらの晩年に歌手生活総決算というべき偉大な3曲を歌ったことです。
「みだれ髪」(作詞星野哲郎、作曲船村徹) 「愛燦燦」(作詞作曲 小椋佳) 「川の流れのように」(作詞見岳章、作曲秋元康)このどれをとっても一級品ですが、最後の歌となった「川の流れのように」は人の一生を大自然の川にたとえ、輪廻転生を思わせるスケールの大きい歌です。
近年新曲特に演歌系が流行らなくなったようですが、私たちは自分の好きな歌を楽しめばよいのであって、昔の歌だからと言って避けることはなく、古い奴だとお思いでしょうが、堂々と懐メロを歌い、後世に歌い継げば、それでよいのではないかと思います。
歌はその時代を反映しているので(流行歌といわれる所以)、昔の良さを歌った時代背景を社会自体が認識しないと後々広く歌われることはありません。
「歌は世につれ」とはいえても、逆に「世は歌につれ」とはなりにくい点が悩ましい。 11月8日にひばりと1歳年下の島倉千代子が75歳で亡くなった。
お千代ちゃんと慕われ、あの独特な美しいビロードの声で私たち多くのファンを楽しませてくれましたが、「人生いろいろ」は文字通り彼女自身の人生そのものでした。
60年間亡くなる直前まで現役歌手生活を続けた彼女の死により、また一つ昭和の星が消えて寂しい気持ちになりましたが、「歌は永遠である」ことも忘れてはなりません。