1 裁判員にノミネートされて
国税の同期の飲み会の席上、S君が「1年以上前に裁判員に選ばれたが、その後呼び出しがないので裁判員は断ち切れになった。」と話したのを聞いて、私も4年程前に同じことを経験したのでその話題で一時盛り上がった。
この裁判員制度は市民の中から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに一審の裁判を行う制度で2009年(平成21年)から施行されています。
導入当初は重大な刑事事件を素人が裁くことに一般に戸惑いや不安感がありました。
私の場合、国税の職場に入ってから、夜学の中大法学部へ学士入学して法律を学んだことがありましたが、はるか昔のことなので学んだことはほとんど忘却の彼方へ消えてしまい、裁判員としてやや心配な面がありました。
ただ思うに国税では長年税務調査を通じ、事実を把握して課税処分を繰り返し行うなかに裁判を意識した部分が多々あり、事実認定と量刑的判断に関しては経験済みでした。
そうはいっても税務調査の顛末は申告税額と調査した税額との差額を納付していただくこと及び税額の加算税が不正の意図ある重加算税対象か単なる計算誤りによる過少申告加算税かという金銭の問題で終わるのに対し、裁判員裁判の場合は地裁で行われる殺人罪などの刑事裁判を審理し、場合によっては極刑に処する人の命にかかわることにもなるためその重みは全く違います。(国税でもマルサ事案は金銭だけでなく刑事罰もあります)
私の場合S君同様「裁判員候補者名簿」に登載されただけでその後裁判所から何も沙汰がなかったため、冥途のみやげとしての貴重な体験はできずじまいで残念という気持ちとプレッシャーから逃れられた安堵感との入り混じった思いでした。
2 死刑制度について
最近の世論調査では死刑はやむを得ないが80.3% 死刑を廃止すべしが9.7%その他10%で国内の死刑容認論が依然として根強いことを物語っています。
死刑容認論の根拠として①被害者や家族の気持ちがおさまらない②凶悪犯罪は命を持って償うべき③生かしておくとまた同じ犯罪をおかす危険があるといった点です。
一方死刑廃止論者は①死刑制度があるのに兇悪事件は増加し犯罪防止抑止効果を持たない②死刑廃止は世界的な潮流で139か国が法律上又は事実上死刑を廃止し、58か国が死刑制度を維持していると主張しています。
死刑廃止国の多くはキリスト教圏に対し、死刑制度はイスラム教圏、仏教圏で支持されています。(後者の国として中国、インド、日本、インドネシア、ベトナム、米国等)
仏教には人はよいことをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるという因果応報の教えがあります。
この悪い行いについては悪因悪果、自業自得となり、司法が悪いことを裁くときその究極の選択が極刑(死刑)と考えられます。
3 凶悪事件のない国へ
事件が起き、犯人が逮捕されても未成年者や心神喪失者の場合は責任能力を欠くということで無罪や不起訴となるケースが多い。
これは民事裁判とは異なり、刑法でいう刑罰を科して社会的に非難することができないためと説明されていますが、被害者の家族の気持ちを思うと理解しがたいところです。
日本犯罪史上最も凶悪なオウム真理教事件(27名殺人、負傷者多数)を引き起こした事件の主犯格である麻原彰晃被告の死刑判決は確定していますが、いまだに刑の執行はなされていません。
それは被告が現在精神病を患っている(詐病説あり)ことや共犯者の裁判が終審していない等の理由が挙げられていますが、先般17年間逃亡の末起訴された最後の被告高橋克也に裁判員裁判の無期懲役の判決が下され、一連のオウム裁判は一審の事実上の結審となり、事件から20年以上たってようやく一区切りがつきました。
裁判に一般人である裁判員が参加することで従来の裁判に庶民感覚が付加されて裁判に期待する向きがありますが、やはり凶悪事件、犯罪をなくすることが理想的です。
これは健康面でいえば病気になってからの治療より生活習慣を管理する予防治療の考えに通じるものです。
日本は法治国家ですから遵法精神は当然のことで「法律なければ刑罰なし」ですが、おびただしい数の法律以前にあるシンプルな社会の規範としての道徳、倫理、しつけといったものを生活や教育の基本としてしっかり実践していきたいものです。