1 取引所風景の移り変わり
京大の山中教授の栄誉あるノーベル医学・生理学賞受賞の知らせを受けて、10月9日の株式市場はタカラバイオといったIPS細胞のバイオ関連株の8銘柄がストップ高となった。
だがこれら8銘柄はJASDAQ・東証マザーズという新興市場銘柄であって、低迷する東証第一部の相場全体を押し上げることなく、その日の日経平均は前日比93円安で引けた。
今回のIPS細胞に関しては「バイオ関連株」が人気付きましたが、株式市場の牽引車としてこのほかに期待されているテーマ株として、いつの時代でも「資源エネルギー関連」、世界に貢献できる「水処理関連」、今は色あせ気味の「中国関連」、常に注目される「ITネット関連」、困った時の「ガン・医療関連」、昔ほどではないが「財投関連」といったものがあり、その時々に連鎖的に買われて市場を盛り上げます。
私は過去3回ほど東京証券取引所の見学をしましたが、その都度取引所の光景が変化して見えました。
かつては大勢の「場立ち」が、フロア一杯に身振り手振りで右往左往して、活気あふれる風景がそこにはありました。
取引の相場実況でも証券会社のウリ、カイの手口が瞬時にわかり、商いが人気あるポストに集中して場立ちが殺到すると笛が吹かれたり、記録的な値がつくと場内から拍手が湧いたりして、ひと息の聞こえる非常に人間臭い場所でした。
1999年(平成11年)4月に取引所の効率化等のため商いがコンピュータ化されて以前のような場立ちが消え、現在の静寂な取引所になってしまった。
2 信用取引の教訓
私が初めて株を買ったのは1971年(昭和46年)8月のニクソンショックの直後の相場が急落した時で、その時はうまく儲けられた。
当時市場では中山製鋼所株をめぐって、買い方が糸山英太郎氏、売り方は名古屋の近藤紡(近藤信男氏)の仕手戦が話題となり、同株は630円から昭和48年には3800円までつけて最終的には笹川グループをバックにした買い方優位の状態で決着をした。
欲望渦巻く株の世界に夢を託して多くの人間が挑んでいますが、最後の相場師として名をはせた是川銀蔵氏は菱刈鉱山の金採掘を信じて住友金属鉱山を買い続けて成功し、スケールの大きい人物として評価されています。
私の株投資は、国税という仕事上インサイダーを指摘されることは職責ポスト上問題ないのですが、銘柄については道義上あとで言われないよう慎重を期して行った。
また私の妻は大の株嫌いで、その理由は親戚の一人が小豆相場(アズキ)に失敗して親戚中に迷惑をかけたといういやな体験から株も同じようにバクチであると信じていたので、私の株投資の抑止力?になっていました。
平成17年に役所を定年退職すると、税理士業を当初自宅にしていた関係で時間を持て余し、現役時代に株取引を抑制していた反動もあって、インターネットを使い本格的に株に取り組んだ。
大きく取引をやるため現物株を担保にその3倍できる信用取引を始めたが、当時規制緩和を旗印に小泉改革によって証券市場は活況で上昇していたため、面白いように持ち株が値上がりして回転商いができ、想像以上に儲けることができた。
しかし「そうは問屋が卸さない」という古い言葉がある通り、上昇していた株は半年くらいたって徐々に下げに転じ、1割下げたらロスカットして手仕舞うと決めていたが、全面安が続いてしまうと当初の決め事が反古されて深いぬかるみにはまって行った。
気が付けば信用で買った株はもちろん、担保とした現物株も同時に大きく下げてしまって追加の担保請求(追証)があり、3度目の追証が来て、ついに信用取引はギブアップしてしまった。
今までの儲けはすべて元の木阿弥となり、残ったのは教訓だけでした。
自分たちは株の相場を作る(コントロールする)ことはできないので、相場の先を読んでその波にうまく乗るようにしなければならない。
株には買い(強気)と売り(弱気)と休みの三つのパフォーマンスしかなく、「休み」とは値下がりした株を長く塩漬けにしていることではなく、相場から資金を引き揚げる状態を意味します。
私の失敗した教訓はこの「休み」がなく、売ったらすぐに別の銘柄を買って休まずに再投資を行ったことです。(上げ基調の相場ではこのスタンスでもよいが)
また相場は山あり谷ありで、下げ相場の対応として信用のカラ売りにも何度か挑戦したが、このテクニックは実際やってみて難しく、私には無理だった。
買いの持ち株が有りながら一方で空売りをすることは空売りをした銘柄のみ下がることを期待していても、総じて下がるときは全体的に下げ、買った株までマイナスが及ぶことが多い。
下げ基調の相場ですべての株を空売りするという考えもできるが、それは究極的に日本経済、世界経済の破局をのぞむ悪魔的発想となってしまい、そこまで非情に徹することはできない。
株に限らずどんな相場でも筋書きのないドラマであり、後で振り返ってみてああそうだったのかと思うことが多いのですが、渦中にいても客観視できる余裕がほしい。
3 株とのつきあい方
日本人の財産内訳をみると、大雑把にいえば不動産が5、預貯金2、有価証券1.5となって、有価証券には同族会社の非上場株式があるため、上場株式の個人の持ち株割合はそう多くはありません。
日本人は株に対するアレルギーがあるとよく言われますが、それは農耕民族のDNAが「株の持つ汗をかかない不労所得を良しとしない」考えからでしょうか。
株は一部の富裕層のものという時代を経て大衆に広く浸透しており、その間に証券マンの口車に乗せられ痛い目にあったことが一因かもしれない。(所詮自己責任ではありますが)
株は適正規模でやる分にはいいが、いのち金に手を付けると、パチンコなど他のギャンブル同様に破滅の道に行ってしまいます。
私の母は「株は頭の体操になってボケ防止に良い」と生前よく云っており、80歳までは売買していた。
しかし亡くなる3年くらい前から自分の体調、病気に気を奪われ、好きだった株の話には興味を示さなくなって寂しい思いがした。
低成長の日本の相場ではかつてのように一攫千金を夢見ることよりも、現物で安いところを拾い、中長期的に持って、高配当利回り、株主優待を享受するのが賢明の策といえます。
弱り切った日本経済では株の心配より、喫緊の雇用問題、明日の日本といった切実な問題が多すぎる気がします。
最後に私の株談義の結論として、今は亡き大原麗子がサントリーレッドのCMで語っていた「少し愛して、ながーく愛して」という姿勢を持ち続けることです。
完
税理士並河の株談義(その2)【H24.10.23】
株談義(その2)