1 初めて被災地(南三陸町)を巡って
東日本大震災から2年5か月経過しましたが、最近では福島の原発関連がニュースになるだけで津波被害の復興状況がどうなっているのかよくわからず、気になっていました。
今回は被災地へ行って、ボランテイア活動するわけでもなく、ただ行くだけでも支援の一つかと思い、行ってみることにしました。
南三陸町を見ての第一印象はかつてあった港町の市街地は跡形もなく消え、区画整理も道半ばの更地状態でした。
おびただしいガレキの山は撤去されてなくなっていましたが、町の次の青写真ができていないのか、1万5千人以上いるといわれる住民はどこへ行ったのだろうと思えるほど人家のない街になっていました。
町の中心部付近には報道でよく目にした、赤胴色の鉄骨だけの3階建防災対策庁舎跡がポッンと建っていました。(この建物も撤去するかどうか議論があったようですが、災害の記念碑として残されるかどうか未定だそうです。)
庁舎の2階で押し寄せる津波警報を自らの命を顧みず、最後まで住民に呼びかけて亡くなられた遠藤未希さん(24歳)をはじめ多数の犠牲者の霊を慰めるため、数多くの花、お線香、千羽鶴等が置かれ、私も手を合わせて焼香をしてきました。
自分の住む家を失った住民の多くは海岸から遠く離れた山あいの高台に作られた仮設住宅に入って不自由な生活を送っています。
隣町である登米市の仮設住宅に移住した人の半数近くは新しい生活を優先してか、以前の町に戻らなくともよいという声があり、住民は住む場所を選ぶ権利があるところから、復興の遅れは過疎化を早め、地域格差は広がる一方であることを感じた。
2 松島海岸の賑わい
南三陸町から松島へ向かう途中、やはり大きな震災にあった石巻付近を通過しましたが、山側から見た石巻市街は街並みもかなり整っているように思われた。
しかし海側の復興は順調とはいかず、読売新聞の7/19の報道記事によれば、人手不足や建設資材の高騰で工事の採算確保が難しく、公共工事の入札が成立しないケースが頻発し、石巻市の2012年の発注工事の48%が不調に終わり、復旧のネックになっているという。
日本製紙石巻工場の大きな煙突から出る白煙(実は水蒸気らしい)は町の復興の象徴にも思え、SLのように吐く煙は町が呼吸をしているかのように感じられた。
日本製紙石巻工場の野球部は今夏の都市対抗代表として出場し、地元を元気づけており、東京ドームでの応援大漁旗はかつての栄光の新日鉄釜石ラグビーを彷彿させます。
松島海岸へ到着すると、そこには昔見た風光明媚の松島がそのままあった。
「松島のサーヨ― 瑞巌寺・・」と始まる宮城県の代表的民謡「大漁唄い込み(斎太郎節)」の2番は「前は海 サーヨー うしろは山で 小松原トエー」となって、この歌詞通り近辺の海はリアス式海岸の天然の良港であり、かつ津波の常習地帯です。
松島は湾内の島々が天然の防波堤となったため、津波の被害は瑞巌寺の境内の杉を塩害のため一部伐採した程度で済み、一帯は外国人を含め大勢の観光客で賑わっていた。
有名な「松島や ああ松島や 松島や」という句は松尾芭蕉が詠んだものではなく、江戸時代後期の狂歌師 田原坊の作です。
芭蕉は松島へ来たようだが、そのすばらしい風景に思わず「絶句」して、句を詠めなかったと観光ガイドが説明して周囲にウケをとっていた。
3 復興税と復興の町おこし
復興税という税金があることをご存じの方も多いでしょう。
復興特別法人税は2012年4月から2015年3月までの3年間、法人税額の10%を上乗せして課税されます。
復興特別所得税は2013年1月から2037年12月までの25年間、所得税額の2.1%上乗せしてかかります。
復興税の趣旨は理解できますが、復興特別所得税については計算の煩雑さに加え、課税期間が25年という気の遠くなる長さにうんざりします。
南三陸町を含む三陸海岸の町おこしのキーワードは漁業を主力とする第六次産業です。
六次産業という言葉は最近よく聞くことがありますが、農業や水産業といった1次産業が食品加工の2次産業そして流通・販売といった3次産業へと展開させるものです。
当初は1+2+3=6の足し算で言われていましたが、最近では有機的結合の掛け算1☓2☓3=6と説明され、雇用と所得の確保をすることで町おこしの推進策となります。
このたび南三陸町へ行って,泊まった「南三陸ホテル観洋」は海岸線にあって地上10階建ての建物です。
創業者は先見の明があり、ホテルはしっかりした岩盤の上に建てられた最強の建築物で、津波の被害は僅かでした。
仮設住宅ができるまでは被災者の避難所の役割も果たし、1日5百~千人近くの地元民を収容したというから立派です。
このような民間にある叡智を行政はもっと活用して迅速な復興を望みたい。
恒常的に災害列島化したわが国では昔は「災害は忘れたころにやってくる」という言葉は、今では「災害は忘れる間もなくやってくる」と言い換えられます。
災害の教訓から「備えあれば憂いなし」とはよく聞きますが、そんな余裕のある心境にはなれず、「明日は我が身」と思い、一日一日大事に生きることを心がけたいものです。