税理士並河の税界よもやま話【36】「天変地異」(H23.3.22)

  ★天変地異
この度の東北関東大地震で震災の犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしますとともに被災された皆様に対し、心より御見舞申し上げます。
この地震は2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分に発生しましたが、その時刻に私は内幸町の高層ビルの32階にいました。
高層ビルは揺れが大きいと聞いていましたが、震度5のその時は船が大揺れしている感じで、ビルが今にも倒壊するのではないかという恐怖心にかられました。
関係者に誘導され32階から歩いて降り、近くにある日比谷公園に行くと、そこは白ヘルメットをかぶった大勢の防災管理者や付近の会社員等が続々と集まり、緊急避難場所となっていました。
しかしまだ被害が目に見えない状況なので防災訓練のような余裕ある雰囲気でした。
交通機関や携帯電話は不通となりましたが、そのうちに電車は動き出すものと思い、同行した職員とともに池袋方面を目指し歩き始めることにした。
途中の市ヶ谷駅でこの地震により三陸沿岸に津波が襲っている様子がテレビに映し出されているのを見て心配になりましたが、最悪の災害になるとは思いませんでした。
日本の美しい自然景観は遠い過去からの激しい地殻変動の蓄積によるものです。
今回被害にあった杜の都仙台は私にとって大学4年間お世話になった青春の思い出ある城下町ですが、近くの日本三景の松島ともども地震の痛々しい傷跡を残してしまった。
三陸海岸は津波の常襲地帯で過去にも大きな被害を受けており、特に1896年(明治29年)の三陸大津波は死者約2万2千人という大惨事でした。(昭和8年に起きた昭和三陸地震では死者1522名)
今回は地震、津波に加え福島の原発事故が併発し、災害の規模・影響は未曾有なものとなっています。
放射能を防ぐため自衛隊、東京消防庁、東京電力等の関係者がまさに命がけで作業を行っており、日本の命運がかかっているといっても過言ではなく、推移を世界中が注目しています。
当みらいの職員の中に家族がいわき市在住の者がおり、放射能避難のため東京に移動しましたが、1日も早く安心できる状況に戻ることを祈らずにはいられません。
   ★日本人の英知
日本発の悲惨な災害のニュースは世界中に伝えられ、被災者の忍耐強さや秩序だった様子さらには略奪のないこと等への称賛と驚きの声が上がっているといわれています。
日本人にやどる農耕民族の助け合いと和の精神は誇るべきものですが、インターネットの現地報告によると、マスコミでは報道されていない火事場泥棒があることも書かれており、事実とすれば許しがたく非常に残念なことです。
日本人は戦後の焼け跡の廃墟だけでなく幾多の災害から火事場の馬鹿力を発揮してたくましく復興してきました。
テレビで見て被災者に同情するだけでなく、彼らの頑張りを見て逆に自分たちも勇気付けられていることも忘れてはならない。
自然の前に放り出されたら人間は弱いものであり、お互いに助け合って生きるしかないことを今回の震災は改めて教えてくれました。
世界中から救助隊が駆けつけてくれ、義援金をいただきありがたいことです。
苦難はこれからも続きますが、希望をもって阪神大震災のときの「頑張ろう神戸!」を今度は「頑張ろう東北!」「頑張ろう日本!」を合言葉に励まし合っていきましょう。