税理士並河の野球雑感「人生いろいろ(甲子園球児のその後)」


 私が昭和43年に日清紡に入社して西船橋の独身寮に入った時、同じ寮生に三浦さんという元甲子園球児がいました。
 彼は昭和39年の春のセンバツに徳島海南高(現海部高)で尾崎将司とバッテリーを組んで優勝した輝かしい経歴の持ち主です。
 尾崎氏の方は西鉄ライオンズへ入団しましたが、三浦氏にはプロからのお呼びがかからず日清紡で普通のサラリーマン生活をして野球は趣味程度に草野球に参加していた。
 イチローのようにすらっと背が高い好青年で、草野球での彼の動きは周りとはレベルが違って私には見えましたが、プロの眼には厳しく映ったかもしれません。
 尾崎氏の方は西鉄を2年くらいで退団して当時は今ほど盛んではなかったプロゴルファーに転向した。
 彼はその後ジャンボ尾崎と呼ばれJPGA優勝94回、通算113回の優勝を勝ち取りゴルフ界をリードする大スターになったのはご承知の通りです。
 三浦・尾崎の二人は甲子園優勝バッテリーという間柄だけでなく、郷里徳島で親同士親戚関係でもありました。
 十数年前に三浦氏は病気で亡くなってしまいましたが、ジャンボ尾崎はその訃報を聞いて「俺は三浦の運をみんなもらってしまった」とスポーツ誌に語っていました。
 尾崎氏が西鉄を早々に退団の決意をしたきっかけは、彼の入団1年前にやはりセンバツで優勝投手となって西鉄入りした下関商の池永投手(2年生の時に優勝して同時入団))のピッチングを見て、とてもかなわないと感じ、この世界では無理だと観念したようです。
 池永正明は西鉄の5年間で99勝をあげた剛速球投手でしたが、昭和45年の黒い霧事件(八百長事件)でプロ野球から永久追放となった。
 しかし彼は陰謀に巻き込まれたとも言われ、近年になって名誉回復の復権運動が盛んになってきています。
 ジャンボ尾崎の方は弟の健夫(ジェット)、直道(ジョー)、飯合らとジャンボ軍団と称してわが世の春を謳歌していましたが、2005年スポンサー契約の関係等で民事再生法を申請して破たんしたというから驚きです。
 三輪明宏は「正負の法則」を唱え「人生はトータルで考えるとプラスとマイナスでゼロになるようになっている」と言っています。
 人によってプラス、マイナスの絶対値に違いはあるものの、この説をあながち否定するものではありません。 
 しかし人はできる限りプラスを多くしたいと考えて生きています。
 ただいつ死ぬかがわからないため、正負の判定は閻魔大王にお任せしています。